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一般的に言うワンの寿命って、今は大型犬なら10歳前後・小型犬なら13歳前後ってとこでしょうか。当たり前のことだけど「人」より寿命が短いわけですから、オーナー側によっぽどのことがない限り、いつかはオーナーがワンを見送ることになりますよね。
いつか来るその日。
当たり前のことだけど、命ある生き物には必ずその日が来る。
んなこたーわかってるけど、自分のワンがいつか突然いなくなるだなんて、考えられないし考えたくもない。私だって、悪性リンパ腫の治療中でさえそんなこと殆ど考えてませんでした。あの時は、負け戦をする気なんかサラッサラなかったし。
だけどふーちゃんが15歳になって以降は、刻々と近づいてくる「その日」を意識することが多くなりました。老化という治療することのできない症状がどんどん出始めていたから。
もう、その日はそう遠くはないのだろうなぁ…と思っているうちに、見送る心構えというか…送り出す勇気?みたいなものをそろそろ持たないといけないなと思うようになって。そしたら、せめてその日は「こうでありたい」という思いがどんどん強くなっていったんです。
その時その瞬間には、そばについててあげたい。
前から漠然とは思っていたけど、それがどんどん強くなっていった。だけど、仕事があるのでそう上手くはいかないだろうとずっとモヤモヤしてたんですよね。それが、過去記事「旅立ちの心構え」で書いたカナダの友人の話を聞いた時、心の中でモヤモヤしていた思いがストンとどこかに収まったような気がしたんです。なんだなんだ、と思って後からよく考えてみたら、ああ私は、例えしたくはない決断をしてでも、ふーちゃんの旅立ちを見送りたいと思ってるんだなってことに気が付きました。
これがいいとか悪いとか、その議論はNヤン以外とはしたくありません。ただ、このことに限らずふーちゃんと16年一緒にいた私とNヤンが、ふーちゃんのためにしたいと思ってしてきた全てのことは、ふーちゃんにとってもベストなことであったと、いつか心からそう思える日が来るといいなと思っています。まだ全部が全部をそう思うことは出来ないけども。
結果、決断しなくても見送ることができました。私はね。
でもNヤンは見送ることが出来なかった。その時のことは何も言わないけど、家を出る時のNヤンがどんな気持ちだったかって考えるだけでもうあ゛ーーー。
ちなみに、1日前ならNヤンも一緒に見送れた。逆にあと2日3日遅かったら…もう何もかも全然違っていたはずなんです。
生き物ですからね。いつか必ず旅立つことになるので「送る勇気を持つ=諦める」ではないと思うんですよ。私の場合の話ですけど、私自身は送る勇気を持たなきゃって思い始めてから、その時にどうしたいのかがはっきりと自覚できるようになったので、それについてはよかったなと思っています。
頭ではわかってるのに、ついつい
あ?
あーいないんだ、そうだよ、もういないんだよー、
って思ってしまう。
気が付くと、それを1日に何度も何度も反復してる。
家の中にあるふーちゃんの形跡を見た時は仕方ない。
でもスケジュールを入れる時、食事をする時、食料品や日用品の買い出しの時、お風呂に入ろうとする時、車に乗った時、玄関を出る時、仕事が終わってさぁ帰るぞと思った時、一緒に歩いた道を通る時、天気を確認した時、友達に誘われた時、スマホで写真を撮ろうとした時。牛乳パックを手にした時。寝る時や夜中に目が覚めた時。
書こうと思えばまだまだ書ける。
思いがけないところで、あれ?って思って、その度にあーそうだった、もういないんだったと思ってしまう。
それが1日に
もう今日、何回目だよ!
っていうくらいに多い。
気分が落ちっぱなしなのは、きっとそのせいなんだろうなぁ。
うーん。これは一体どうしたものかと( ̄_ ̄)
頭では、いつまでもいないことに凹んでばっかりいないで、早く「今までいてくれてよかった」って思えるようになりなよ!って思ってるんだけどなぁ。
いろんなことがある度によく思う。
「頭の中」と「心」って、どうしてこう上手いことリンクできないもんなんでしょね。頭ではわかってるのに、心が全然ついてこないの。
あらためて、ワンの存在感って本当にスゴいと思う。